津田信夫の生涯
鋳金工芸作家の津田信夫は、千葉県佐倉市で代々漢方医を営む家に生まれ、中学卒業まで地元で過ごします。
高校卒業後は東京美術学校の鋳金科を専攻して知識や技術を学び、卒業から2年後には助教授として教壇に立ち、その後教授となり後世の育成に励みました。
教授として後世の育成に励む中、日比谷公園の噴水や日本橋の装飾など東京美術学校が依頼を受けた公共施設に設置する鋳金作品などを複数の鋳金作家と共作し手がけた事で都市開発に貢献します。
その後、同じ鋳金作家で東京美術学校の教員でもあった香取秀真と意気投合して青壺会を結成しました。
また、商工省工芸展などの審査員になるなど数多くの功績を残してきた津田信夫の評価は高く、48歳の頃文部省からヨーロッパで多くの技術を学んできなさいと留学の命を出され1人来日する事となります。
来日から2年後の1925年には、パリで開かれたパリ万国現代装飾美術工芸博覧会にて審査員を務めるという大役までこなしました。
帰国後は、ヨーロッパで見てきた工芸を日本へ伝えた事で高村豊周など当時の若い工芸家達に大きな影響を与える事となります。
また、香取秀真と帝展に工芸部を設置するなど後世の為に様々な活動を行ってきましたが、1946年に72歳の若さでこの世を去りました。
津田信夫の作風
津田信夫と共に活動していた香取秀真は、彫金の中でも花瓶や香炉などを数多く手がけ、置物に関しては柔らかい曲線が特徴です。
津田信夫は、主に置物などを手掛けていて、作風は香取秀真と同じく柔らかい曲線が特徴となっています。
左に載せている画像を見て頂くとわかりますが、鳩の頭や胸、くちばし、くちばしの上についている鼻こぶの丸みなどが忠実に再現されています。
津田信夫が丸みを帯びた作品を作り始めたのは後年の頃からで、初期の頃は日比谷公園にある鶴の噴水や、日本橋の装飾で作った獅子像などのようにゴツゴツとした作風が多かったそうです。
後年の丸みを帯びた作風は、ヨーロッパに留学した際に立ち寄ったアールデコ博覧会で出会ったフランソワ・ポンポンという彫刻家の影響を受けた事によります。
フランソワ・ポンポンは、フランスで生まれた彫刻家でずっと彫刻家の助手などをして生計を立てていましたが、師匠であり近代彫刻の父と言われたオーギュスト・ロダンが亡くなったのを機に独立します。
62歳というかなり遅い独立でしたが、助手として培った技術が開花して山鳩という作品がリュクサンブール美術館に購入されてから人気に火が付きました。
デビューから5年後の67歳の時に白熊という作品を作った所、白熊らしい丸々とした足と体につぶらな瞳が可愛らしいと高評価を受けたちまち人気作家の仲間入りを果たしました。
フランソワ・ポンポンの影響を受けた津田信夫の作品も、柔らかいフォルムで可愛らしさが全面に出ている作品に仕上がりました。
鋳金作品の買取
いわの美術では、彫金作家の津田信夫の彫金作品の買取を行っております。
また、津田信夫と活動を共にしていた香取秀真や、香取秀真の息子の香取正彦、文化勲章を受章した蓮田修吾郎などの作品も多数お買取りしております。
鋳金作品には、作品の底面や側面に作家のサインが書かれていますので、売却希望のお品物などございましたらお品物全体とサイン部分、共箱がありましたらそちらの写真も頂けますと幸いです。
また、いわの美術では鋳金作品以外でもお茶碗や棗などのお茶道具や、パイプや煙草盆などの喫煙具、油彩やリトグラフなどの絵画、仏像などの中国美術、時計や貴金属などのブランド品、パンダ金貨や記念硬貨などもお買取りしております。
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